塩地蔵と呼ばれるお地蔵さんが色んな場所に存在します
その名の通り塩に埋もれているお地蔵さんで、自分の体の治してほしい部分と同じ場所にお地蔵さんいに塩を塗ってお祈りするとご利益があるとされるものが多い気がします
麹町にある心法寺にいらっしゃる塩地蔵もまた体に塩を塗ってお参りするお地蔵さんです
墓地内にある六地蔵とともに200年以上の歴史があり、麹町の史料にも記述があります
身体健康にご利益があるとされています
塩地蔵のある心法寺とは
心法寺は慶長2年(1597)に開かれた浄土宗のお寺です
千代田区内で唯一江戸時代江戸時代初期からの寺院となっています
開山は然翁聖山上人、開基は徳川家康
山号は常栄山、本尊は木造阿弥陀如来坐像
東京三十三観音霊場15番札所ともなっています
心法寺の歴史
元々は推古天皇の頃三河国に創建された寺院で、当時は秦宝寺と称していました
心法寺として起立したのは慶長2年(1597)徳川家康の入府に従ってのことです
心法寺開山の然翁聖山上人は三河国から天正18年(1590)に徳川家康といっしょに江戸にやってきました
三河国に帰ろうとした上人を家康が引きとめ、当初は市ヶ谷に広い寺地を与えました
しかし「衣食が十分だと僧侶が怠け者になってしまう」「江戸に移住した町人たちのために大衆的なお寺にしたい」という二つの理由で断り、現在の地に建てられることになりました
天保9年(1838)心法寺から出火、寺と麹町の多くが焼かれてしまいました
天保11年(1840)に中屋敷内御殿が払い下げられ、弘化4年(1847)に復興しました。
江戸時代には有名であった閻魔様もあったのですが、東京大空襲の際に焼かれてしまったそうです
閻魔様とお地蔵さんは同一なので、焼かれたのは非常に悔やまれます
本堂
心法寺の文化財
・井沢弥惣兵衛為永の墓
・竹尾善筑の墓
・真野是翁の墓
・麹町区役所職員殉職碑
塩地蔵(心法寺)へのアクセス
・木造阿弥陀如来坐像
この心法寺に伝えられる本尊「木造阿弥陀如来坐像」は、像高109.0cm(3尺5寸9分)、ヒノ材寄木造りで漆箔を施し、おおむね12世紀最末から13世紀第一四半期までの製作と考えることができます。すなわち本像の像容・面貌は平安時代後期、11世紀に仏師定朝が完成した定朝式に基本的にしたがうもので、寄木造りの手法にも、その直の特色をしめしていますが、胸腹部など厚く量感をもった体躰などには、鎌倉時代初頃に成立した新様式の影響がうかがわれます。この点からすれば、本像は鎌倉時代にはいってからの製作と考えるのが自然でしょう。ただし後頭部、左腕の一部と右腕の全部など補修部分が多く、製作当所の像容をかなり損ねており、従って製作年代の確定を困難にしている点も否めません。しかし平安時代後期の面影をのこす鎌倉時代初期の、等身大をうわまわる大きさの像が都心の寺院に遺存することは貴重な事例です。
引用:境内の掲示板
・紙本着色仏涅槃図
心法寺には、「紙本着色仏涅槃図」も伝わっています。本件は、沙羅双樹の下で釈迦が入滅する姿を描いた仏画です。中央の釈迦には箔が貼られ、横158.4cm。本図の画面上部の構成は、仏画の典型に従っており、類型的に描かれています。これに対し、画面最下段の部分には、多くの鳥獣が凝縮して描かれています。これら動物が釈迦の入滅に際して泣き、嘆き悲しむ姿で描かれるのが普通ですが、本図ではほとんどの動物が嘆き悲しまず冷静な姿で、いわば写実的、博物学的に描かれています。そしてこのような博物学的な写生図の気運が高まるのは、一般に享保時代以降とされています。また図中には、「伯喬図」との落款があります。この伯喬については、「武江年表」元文元年(1736)8月の記事に「品川(北番場)天竜寺に、呉道子の筆南海補堕山鎮海寺立石観世音像を写して碑を立つる(素人斎伯喬之を写す、加藤氏造立)」とあります。以上のことから本図は、享保・元文年間(1716-41)に作製された作品であると思われます。
引用:境内の掲示板
・銅製鐘楼
心法寺にある著名人の墓
・井沢弥惣兵衛為永の墓
・竹尾善筑の墓
・真野是翁の墓
・麹町区役所職員殉職碑
塩地蔵(心法寺)へのアクセス
千代田区麹町6-4-1
JR四ツ谷駅より徒歩5分