小野篁は、平安時代の貴族であり、歌人、学者、陰陽師として知られています。
また当ブログでも何度となく、名前が登場している地蔵信仰に深く関わった人物でもあります。
この記事では小野篁という人物について掘り下げていきたいと思います。
【目次】
小野篁とは
小野 篁(おの の たかむら)は、平安時代初期の官僚。
学者・詩人・歌人としての顔も持つ。
遣唐使派遣の際、乗船を拒否。
そのことを綴った漢詩が嵯峨上皇の怒りにふれ、隠岐(おき)国へ流罪になった。
また昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめていたという言い伝えもあります。
閻魔王とお地蔵さんは密接な関係があることから、当ブログでは幾度となくその名前が登場することになります。
小野篁とお地蔵さんとの関連
京六地蔵と小野篁
仁寿2年(852年)篁は一本の大木から地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道それぞれを救う六体の地蔵菩薩を刻み大善寺に安置しました。
※現在では六体の地蔵がそれぞれ別のお寺に安置されています。
大善寺のある京都市伏見区桃山町は、六地蔵信仰の発祥地となっており、付近の地名も「六地蔵」と呼ばれているようです。
ちなみに筆者が小野篁の名前を知ったのも、京六地蔵がきっかけです。
六臂地蔵尊を作成
篁は京六地蔵以外にも地蔵菩薩を作っています。
それが何と!腕が六本ある六臂地蔵尊。
これは六体の地蔵菩薩(京六地蔵)を彫り上げた後、「六道全てを救う地蔵尊を彫れないだろうか?」という想いから作成されたものです。
冥界で地蔵に出会った小野篁
篁が京六地蔵を作るに至った出来事があります。
それは篁が臨死体験をした際、冥界で出会った地蔵菩薩にこのように言われました。
「あなたを蘇らせてあげる代わりに地蔵信仰を広めてほしい」
承知して蘇った篁はいわば地蔵信仰を広める意味で京六地蔵を作成したのです。
小野篁と関連の深い寺院
矢田寺
篁が閻魔大王に菩薩戒を授ける人物として矢田寺の満米(まんまい)上人を紹介します。
これは篁が満米上人に帰依していたからです。
六道珍皇寺
篁は現世と冥府を往来していたと伝わっています。
その往来には井戸を使ったとされており、その井戸は、京都東山の六道珍皇寺(死の六道、入口)と京都嵯峨の福正寺(生の六道、出口、明治期に廃寺)にあったとされています。
さらに近年、旧境内地より冥土から帰るのに使った「黄泉がえりの井戸」が発見されました。
また六道珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されています。
京六地蔵
中途半端なまま終わっている京六地蔵巡りも、改めて行わなければならないと思っています。
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