平安時代は平安京の正門であった羅城門。
その跡地に矢取り地蔵尊という変わった名前のお地蔵さんがいます。
一体どうしてそのような名前が付けられているのでしょうか?
そこには弘法大師空海が関連していました。
【目次】
矢取り地蔵尊の名前の由来
天長2年(824年)日照り続きで人々は飢えと乾きに苦しんでいました。
この状況を見た淳和天皇は、勅命を出して東寺の空海(弘法大師)と西寺の守敏(しゅびん)僧都に雨乞いをおこなわせました。
東寺と西寺は平安京を守っていた国立の重要なお寺です。
雨乞いの法会は平安京内に造られた庭園である神泉苑で行われました。
先に祈祷を行ったのは守敏、しかし雨が降ることはありませんでした。
一方空海が祈祷を行うと、三日三晩にわたって雨が降り続け、大地を潤すこととなりました。
このことで空海に恨みを持った守敏は、羅城門近くで待ち伏せをして空海に矢を放ちました。
その矢はどこからともなく現れた黒衣の僧にあたって空海は難を逃れました。
その黒衣の僧こそが地蔵菩薩の化身であったのです。
人々は身代わりになった地蔵を矢取りの地蔵とよび、羅城門の跡地であるこの地に地蔵尊をたてて長らく敬まってきました。
矢取り地蔵尊の右肩には矢傷の跡が残っているとのことですが、写真ではよく分かりませんでした
現在の地蔵堂は明治18年(1885年)に唐橋村(八条村)の人々が寄進したものです。
敷地内にあった石仏
敷地内には大小さまざまな石仏が矢取り地蔵尊の隣に祀られています。
昭和初期に九条通の拡張工事をしたときに出てきたとのこと。