JR荻窪駅の線路沿いにある光明院というお寺では、泣きべそ地蔵というお地蔵さんを見つけました。
光明院は「荻の小径」という自由通路があり、萩が自生することから「萩寺」の通称で呼ばれ、荻窪の地名の由来になったと言われています。
【目次】
光明院の基本情報
光明院は真言宗豊山派のお寺で、山号は慈雲山、寺号は萩寺。
和銅元年(708年)行基作の仏像を背負った遊行中の僧が、この地を通りかかったところを急に仏像が重くなり、萩の草堂を作って仏像を安置したのが開創と伝えています。
本尊は千手観音坐像、通称「荻窪の観音様」の名で近在の人々に親しまれています。
山門
本堂
現在の本堂は天保11年の火災から10年後に再建された建物で、明治21年に甲武鉄道(現在の中央線)建設のため北へ移り、その後昭和44年ホール新築にあたり現在の場所へ移築しました。
御本尊は千手観音座像(推定 南北朝時代作・1300年代)です。
以前は、毎年8月16日に縁日が行われ、村の男女が、この縁日がきっかけで結ばれる事が多かったことから「出逢い観音」といわれてにぎわっていました。
鐘楼
平和を祈願して作られ、朝昼夕と毎日ついておりました所、作家の上林暁(かんばやし あかつき)先生が、「光明院の鐘の音」と題された随想を文芸春秋に発表され、有名になりました。
御遺族の希望で光明院で葬儀が行われ、沢山の文士の方が鐘を鳴らし冥福を祈りました。
光明院のお地蔵さん
泣きべそ地蔵
小張吉兵衛さんが建立された阿彌陀様、観音様、勢至菩薩の4体の大きな石仏をいいます。
吉兵衛さんが両親と奥さんを相次いで亡くし、悲しみをまぎらすためにお地蔵様を建てました。
建てた当時は普通のお顔でありましたが、だんだん悲しみの顔にかわり、ついに泣きべその顔になった。と伝えられています。
本堂、鐘楼、泣きべそ地蔵の説明文は、光明院のウェブサイトから引用させて頂きました。