お地蔵さんブログ

お地蔵さんの写真や解説などを記しています

元浅草周辺で出会ったお地蔵さん

元浅草周辺で出会ったお地蔵さん

 

元浅草は江戸時代初期の頃から寺院の多く集まった地域で、新寺町の通称で呼ばれることもあるお寺の多いエリアになります。
今回の記事では元浅草を深掘り。
たくさんのお地蔵さんと出会うことができました。

 

【目次】

 

華蔵院

本堂

 

華蔵院天台宗のお寺で、山号は宝光山、寺号は影現寺。
創建年代は不明。
慶長16年(1611)に田所町から谷寺町へ移転。
当所に移転したのは正保元年(1645)のことです。
本尊は一光三尊如来
長野善光寺東京別院となっています。

 

山門

山門

 

華蔵院で出会ったお地蔵さん

華蔵院で出会ったお地蔵さん

 

六地蔵

六地蔵尊

 

華蔵院へのアクセス

台東区元浅草1-17-2
都営大江戸線つくばエクスプレス新御徒町駅より徒歩約4分
東京メトロ銀座線稲荷町駅より徒歩約5分

 

観蔵院

観蔵院

 

観蔵院は真言宗智山派のお寺で、山号は広幡山、寺号は隆源寺。
証円が開山となり、慶長16年(1611)創建。
当所に移転したのは正保元年(1645)のことです。
御府内八十八ヶ所霊場45番札所、荒川辺八十八ヶ所霊場83番札所にもなっています。

 

山門

山門

 

聖観音

聖観音

 

観蔵院で出会ったお地蔵さん

観蔵院で出会ったお地蔵さん

 

観蔵院へのアクセス

東京都台東区元浅草3-18-5
都営大江戸線つくばエクスプレス新御徒町駅より徒歩約5分
東京メトロ銀座線稲荷町駅より徒歩約6分

 

延命院

延命院 山門

 

延命院は真言宗智山派のお寺で、山号玉龍山、寺号は弘憲寺。
1444年(文安元年)、義勧によって開山。
明暦の大火を機に当地に移転されました。
御府内八十八ヶ所霊場51番札所、荒川辺八十八ヶ所霊場82番札所にもなっています。

 

本堂

本堂

 

弘法大師

弘法大師像

 

延命院で出会ったお地蔵さん

お地蔵さん

 

延命院へのアクセス

台東区元浅草4-5-2
都営大江戸線つくばエクスプレス新御徒町駅より徒歩約5分
東京メトロ銀座線稲荷町駅より徒歩約6分

 

正福院

山門

 

正福院は真言宗智山派のお寺で、山号は望月山、寺号は般若寺。
慶長十六年(1611年)に、源秀によって開山。
当地に移転したのは正保元年(1645年)のことです。
本尊は大日如来
御府内八十八ヶ所霊場61番札所にもなっています。

 

本堂

本堂

 

白衣観世音像

白衣観世音像

 

弘法大師

弘法大師像

 

正福院で出会ったお地蔵さん

お地蔵さん

地蔵菩薩

 

syofukuin.tokyo

 

正福院へのアクセス

東京都台東区元浅草4-7-21
銀座線 稲荷町駅より徒歩約5分

 

この記事で紹介しきれなかったお地蔵さんは次回紹介します。
ぜひあわせてご覧ください。

 

jizo-bosatsu.hatenablog.com

 

 

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泉龍寺のお地蔵さん

子安地蔵尊

 

前の記事で泉龍寺別院のお地蔵さんを紹介しました。
本家「泉龍寺」でも珍しいお地蔵さんと出会うことができました。

 

【目次】

泉龍寺の基本情報

泉龍寺は曹洞宗のお寺で、山号は雲松山。
天平神護元年(765年)良弁(ろうべん)僧正が法相宗華厳宗兼帯の寺を創建したのが泉龍寺のはじめとされています。
本尊は釈迦如来

 

山門

山門

 

安政6年(1859年)に再建。
平成18年(2006年)修理し銅板葺となりました。

 

手水舎

手水舎

 

本堂

本堂

 

宝永3年(1706年)再建。
昭和35年(1960年)大改修によって瓦葺となりました。

 

鐘楼

鐘楼

 

弁財天池

弁財天池

 

泉龍寺という寺名の由来にもなっています。

 

泉龍寺で出会ったお地蔵さん

延命子安地蔵尊

延命子安地蔵尊

 

和泉の泉龍寺の延命子安地蔵尊は、まわり地蔵としてよく知られていた。
江戸時代の半ば頃から、この地蔵尊は、江戸や多摩の各地の信者の家を宿にして、巡行(じゅんぎょう)を続けていた。通称は子育地蔵さん。
巡行先では和泉の地蔵さん、世田谷の地蔵さん(江戸時代には世田谷領だったので)、まわり地蔵、荷送りの地蔵、一夜地蔵などと呼ばれていた。
今では、いつも寺の本堂に安置されているが、昭和十八、九年頃までは、月の二十五日から翌月の二十二日まで、各地の講中の家々をまわっていたのである。巡行先は月ごとに決まっていて、例えば、江戸時代から三月講中の名でも呼ばれる練馬・十條の講中には、三月から四月、「送り込み」のいちばんにぎやかな立川・小平方面の講中への巡行は、十月から十一月であった。
 厨子(ずし)に入ったお地蔵さんは、しょいこで背負われていくこともあったが、大八車に似た小型の黒塗りの車で運ばれた。
巡行の間、寺では「お留守番」と呼ばれる一体の地蔵尊が、留守居役を務めていた。
和泉の地蔵さんのお宿をすると、子どもが丈夫に育つとか、子どもが授かるとかいわれ、子どもの弱い家や子どもの欲しい家などでも宿をした。
地蔵尊を迎えた宿の家では、近所の子どもたちにぼた餅など振る舞ったり、おばあさんたちが百万遍のお念仏をしたりするところもあった。
二晩泊めるとお地蔵さんが泣くといわれ、どこでも一夜限りで、次の宿へと送っていく。
「延命子安地蔵尊」と書いた赤や白の旗を立て、到着を知らせる鉦(かね)をカーンカーンとたたきながら行列をつくっていった。
二十三日には、送り込みといって、巡行先の講中の人たちが地蔵尊を泉龍寺へ送り込み、この夜は寺でお籠(こも)りをする。
この日の午後から翌二十四日の縁日には、寺の境内に露店が出て、特に十一月には、たいそうなにぎわいであった。
送り込みの夜には、寺では演芸などもあり、近所の子どもたちも、それは楽しみなものだった。

引用:狛江市 泉龍寺のまわり地蔵

 

廻り地蔵とは江戸時代に全国的に流行った風習で、いつかは記事にしなければと思っていたのですが、まさか廻り地蔵で巡行していたお地蔵さんと出会えるとは!

 

泉龍寺へのアクセス

東京都狛江市元和泉1-6-1
小田急小田原線狛江駅」北口より徒歩1分

 

 

 

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耳切り地蔵尊(泉龍寺別院)

耳切り地蔵尊

 

東京都狛江市にある泉龍寺別院には、耳切り地蔵尊というお地蔵さんと出会うことができました。
本尊が地蔵菩薩像でもある、このお寺の基本情報と共に紹介していきましょう。

 

【目次】

 

泉龍寺別院の基本情報

南の参道、大門通りに面する旧龍法寺跡には平成6年(1994年)、地蔵菩薩を本尊とした泉龍寺別院が建立されました。
檀信徒をはじめ広く市民の物心両面の支援を得て完成し、手入れの行き届いた斎場として定評があり、また市内や地域の文化活動の拠点としても活用されています。

 

引用:雲松山 泉龍寺(別院)

 

本堂

本堂

 

泉龍寺別院で出会ったお地蔵さん

耳切り地蔵尊

耳切り地蔵尊

 

このお地蔵様は背中に「明暦三年(1657)壇那の菩提のために、地蔵菩薩を造立し奉る。隆法寺、西源の代」という文字が刻まれている。
隆法寺は、泉龍寺の末寺西光山隆法寺のことで、阿弥陀堂であった。

 

元禄六年(1693)頃までは、名主の谷田部家の屋敷隣、和泉と猪方の境に近いところに建てられていた。
その後、泉龍寺の表門前、今の別院の位置に移った。
泉龍寺の塔頭として、旅人を泊め村の中の憩いの場所となり、親しまれたが、明治維新の頃に廃寺になった。

 

むかし、このお地蔵様が道辻に立っていた頃のこと、村人が追いはぎに襲われ刀で切りつけられ、やっと逃げ帰ったが、何の傷もない。
翌日になって襲われた場所に行ってみると、何とお地蔵様の耳に刀傷があるではないか。
お地蔵様が身代わりになってくれたのであった。

 

別の言い伝えもある。

 

あるとき村人が口論の末、相手の左耳を切りつけてしまった。
ところが後で調べてみると、切りつけたのはお地蔵様の耳であったという。

 

こうして「耳切り地蔵尊」と呼ばれるようになった。
そして誰いうとなく、耳を痛めたお地蔵様は、耳で悩んでいる人を救ってくれる、ということにもなり、今も心願をかける方がある。

 

耳切り地蔵尊は長らく泉龍寺の表門前の辻に立っていたが、龍法寺が廃寺となった後、「耳切り地蔵尊」は、しきりに元の辻に帰りたがっていた、という噂話を古老が伝えている。
しかし平成六年(1994)に泉龍寺別院が建立されたのを記念して、隆法寺の故地に戻っていただいた。

 

隆法寺と切っても切れない縁で結ばれた「耳切り地蔵尊」には、ますます衆生済度の真価を発揮して頂けるのではないだろうか。

 

引用:耳きり地蔵尊の由来

 

本尊延命地蔵菩薩像

本尊延命地蔵菩薩像

 

このほぼ等身大のお地蔵さまは半跏姿の木像です。
平成6年(1994)修理の際、頭部の内側から願文が見つかり、 尾張国名古屋城下の河合源蔵が願主となって、元文5年(1740)に造立されたことが分かりました。

 

源蔵は元禄9年(1696)に生まれ、九歳の時に父を亡くし、宝永5年(1708)13歳で母を亡くし、兄弟に養育されて成人し、妻子を持ち、浮世で活躍していたそうです。
ところが35歳のとき、有為転変の娑婆の世をこのように過ごすのは間違いだと気づき、名を西定と改め、享保15年(1730)6月18日に日本回国つまり諸国行脚の旅に出、また父母の極楽浄土のため、仏像二千体の大願をたてました。

 

古い仏像修理も新しい仏像造立も作科礼物を全く取らないというのです。
源蔵は仏師だったようです。この像は1358体目。源蔵こと西定は45歳、母の33回忌の年でした。

 

頭部に納められた別の紙に、寛政7年(1795)大仏師吉見三郎兵衛が修理したことが記されていました。
泉龍寺に安置されたのはさらに数10年後、幕末の17世紀住職心学定践の時代です。

榎戸村(東京都国分寺市内)の榎戸元右衛門が寄進しました。
元右衛門は回り地蔵として名高い泉龍寺の子安地蔵尊に熱心な講中の人でした。

 

当時、泉龍寺は23日と24日、江戸や周囲の農村の月ごとに決まった地域から子安地蔵尊を送り込んでくる人たちでにぎわいました。
金色に輝く地蔵菩薩は、本堂内の室内の間にまつられ、いつのまにか「かなぶつさま」と呼ばれるようになっていました。
昭和35年(1960)本堂開山堂の大改修があり、その後は開山堂に移されていましたが、平成6年泉龍寺別院の完成とともに別院の本尊としてお迎えしました。

 

引用:泉龍寺別院 本尊延命地蔵菩薩像の由来

 

jizo-bosatsu.hatenablog.com

 

泉龍寺別院へのアクセス

東京都狛江市元和泉1-13-18

 

 

 

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