お地蔵さんブログ

お地蔵さんの写真や解説などを記しています

背面地蔵尊(薬王寺)

地下鉄三ノ輪駅入り口の面する昭和通り「背面地蔵尊という表示が貼り出されていました

背面地蔵尊の案内板

薬王寺の参道へと続く道らしいのですが、すぐ隣にある吉野家のダクトからの熱を感じつつ先へと進みます
それにしても狭いっ!!

薬王寺へ続く道

路地の先の、地蔵祠の中には・・
背面地蔵尊が立っていらっしゃいました

背面地蔵尊の地蔵祠

ちなみに背面地蔵尊は、「はいめんじぞうそん」ではなく、「うしろむきじぞう」と読むのだそうです
変わった名前の由来も解説していきたいと思います

【目次】

薬王寺の基本情報

薬王寺の本堂

薬王寺天台宗のお寺で、山号は東光山、院号は長命院
開山は天海僧正
本尊は薬師如来秘仏となっている

薬王寺の歴史

薬王寺の創建年代は不明
関東大震災で全焼
その後復興するも、昭和20年の東京大空襲の戦火で、堂宇・宝物・什物文化資料が焼失してしまいました

 

戦前は毎月の縁日で大変な賑わいをみせたといいます
本尊の薬師如来は現在では姿を見ることができませんが、眼病に御利益があるとされ、お地蔵さんとともに信仰の対象として多くの参拝客が訪れたといいます

背面(うしろむき)地蔵尊

背面地蔵尊

この真っ白なお地蔵さんには、どうして背面(うしろむき)地蔵尊という変わった名前が付けられているのでしょうか?
その答えは境内の掲示板にありました
全文を抜粋して紹介します

 

昔の昔この地蔵尊は上野から奥州へ向かう旧街道の傍らに在した。
その後道筋が改り、後背の箕輪町通りが新しく拓け、旧道に面していた地蔵尊が新道からはうしろ向きに見えるので、恰も此の尊称が起こったのである。

 

昔この地蔵尊は上野から奥州へ向かう旧街道の傍らに在した。
その後道筋が改り、後背の箕輪町通りが新しく拓け、旧道に面していた地蔵尊が新道からはうしろ向きに見えるので、恰も此の尊称が起こったのである。


記録には、「ここに又不思議なるは御遷座の夜、主僧の夢に神人現わる。告げて曰く汝如何なれば我が面を東に向わしめたるや、そもこの寺の西辺は古陸奥への駅道なり、我はその道に臨み西に向い立ちたるなり、とありければ主僧驚きて遂に石工を招き寄せ事の仔細を語り聞かせしに、石工も夢に同じ告を蒙りたりとて、その夜のうちに御像を動かし面を西に向わし奉りぬ。


さればその後参詣せし人々はその有様を見て、さても不思議なるかな昨日は東に向ひたまいしに今日は西に向はせられたりとて、その事たちまち四方に伝わり、背面地蔵の御名遠近に聞え渡りぬ」頃明和元年(1764)


こうして薬王寺の背面地蔵尊は本尊薬師如来の冶眼信仰と共に毎月の縁日で賑い栄えたのであった。道路仏でもあり、延命子育てとしての地蔵信仰は今でも多くの人々に語り継がれている。
道路仏でもあり、延命子育てとしての地蔵信仰は今でも多くの人々に語り継がれている。

 

この場合の新道とは、現在の昭和通りのことでしょうか?確かに昭和通りに背を向けて立っていることになります
それにしてもお地蔵さんが自分の意思で西向きに立ったのでしょうか?不思議な言い伝えですね

薬王寺へのアクセス

台東区根岸5-18-5

地下鉄日比谷線三ノ輪駅より徒歩5分

ひまわり地蔵尊 投げ込み寺(浄閑寺)

浄閑寺 山門

浄閑寺の山門は江戸時代に建立されたもので、荒川区教育委員会より荒川区の最古の木造建造物として指定を受けています。

 

南千住の近くの浄閑寺というお寺にひまわり地蔵尊という名前のお地蔵さんがいるというので行ってきました
太陽の下で働いてきた日雇い労働者のシンボルとのこと
あしたのジョーで有名になった泪橋のあるドヤ街「山谷」はここから徒歩で10分ほどです
また浄閑寺は吉原遊郭に近く、通称投げ込み寺としても知られています

浄閑寺の基本情報

浄閑寺は浄土宗のお寺山号は栄法山、院号は清光院
開山は天蓮社晴誉順波和尚
本尊は阿弥陀如来

浄閑寺の歴史

浄閑寺は明暦元年(1655)に創建されました
安政2年(1855)の大地震の際にたくさんの吉原の遊女が投げ込むように葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになりました

浄閑寺 本堂

平成七年に改築された二階が本堂・客殿になっています
旧本堂は昭和59年の不審火で消失してしまいました

ひまわり地蔵尊

ひまわり地蔵尊

山谷は日雇い労働者が集まるドヤ街として知られています
山谷老友会はひとり淋しく人生を終える労働者たちが孤独の壁をこえて連帯し支えあってきました


しかし死後の安心なしには真の生活の安らぎがないと倉田辰彦氏がひまわり地蔵尊の建立を思い立ちました

 

ひまわりは太陽の下で一生を働きぬいてきた日雇い労働者のシンボルといえます
この地蔵尊は倉田辰彦氏はじめ多くの方々のご厚意と浄財によって建立が実現したものです

 

この地蔵尊は墓地の区画内にあります
基本的にブログ記事執筆の為に墓地内には立ち入らないことにしているのですが、今回は住職さんの許可がおりたので例外的に墓地で撮影しています

浄閑寺の著名な建造物

新吉原総霊塔

新吉原総霊塔

現在の塔は昭和4年8月に、寛政5年(1793年)以来の供養塚を改修し、形を改め、名も「新吉原総霊塔」としたものです。


前の塚は安政2年(1855年)10月2日の大地震に横死した遊女五百余人が運ばれ供養されていました。
新吉原創業から廃業まで江戸、明治、大正、昭和と三百八十余年間に浄閑寺に葬られた遊女、遊女の子、遺手婆など遊郭関係のものや、安政、大正両度の大震災に死んだものを含めた推定数は二万五千に及びます。

 

塔の前方にはお地蔵さん
塔の基部には花又花酔の句「生まれては苦界、死しては浄閑寺」が刻まれています。

豕塚(いのこづか)

通称豚塚(ぶたづか)と言われる。
この碑は天保年間に災厄除けのため白い豕(猪ならん)を、吉原大門の側に飼育したのを死んだのち葬ったものである。


この豕塚には猪の絵が彫ってあり「火伏せの豕」と伝承されて、浄閑寺安政、関東、二度の震災のほか、東京空襲の猛火をも免れたのは、この豕のお蔭だと信ずる人もある。

首洗い井戸

父・本庄助太夫の仇である平井権八を討ち果そうとした助七と助八の兄弟でしたが、兄助七は吉原田圃権八に返り討ちにあってしまいます。


弟の助八はこの井戸で兄の首を洗っているところを、無残にも権八に襲われ討ち果たされてしまいました。
この平井権八の話は、浄瑠璃や歌舞伎にもなっています。

小夜衣供養地蔵尊

小夜衣供養地蔵尊

元々は境内にありましたが、今は山門前に立っています、「悪い部分をなでると良くなる」という言い伝えがあり、お参りの人が絶えません。


この小夜衣(さよぎぬ)については次のような話があります。
京町1丁目の四つ目屋善蔵の抱え遊女、小夜衣は、女主人に放火の罪をきせられ、火あぶりの 刑になりました。
ところが、一周忌、三回忌、七回忌のたびに廓内から火が出て四つ目屋はいつ も全焼し、ついには潰れてしまいました。


廓内の人々が集まって霊を慰める仏事を行ってからは、 年忌ごとの家事はなくなったそうです。

新比翼塚

新比翼塚

明治十二、十三年のころ品川楼で情死した遊女 盛絲(せいし)と内務省の小使 谷豊栄(とよなが)二人の追善に建てられたのである。
永井荷風浄閑寺へ誘ったのは、新比翼塚であった。

萩原秋巌先生の墓

1803〜1877年 江戸時代後期の書家。
享和3年生まれ。巻菱湖(まき りょうこ)の高弟で、一派をなす。
宋(そう)(中国)の徽宗(きそう)の書体痩金書を好んだ。明治10年2月19日死去。享年75歳。

荷風花畳型筆塚

昭和38年建立(谷口吉郎氏設計)
永井荷風の死後、知人有志によって荷風を偲び建立された記念碑です。


中には荷風の2枚の歯と常用していた平安堂製白圭銘の小筆が1本納められています。
設計者の谷口吉郎氏は帝国劇場や東宮御所などを設計された有名な建築家です。
また筆塚の側面の壁には偏奇館吟草の中より「震災」の詩を彫った黒御影石の歌碑があります

三遊亭歌笑

歌笑は戦後の人気噺家であった。檀家ではないが、この墓の右隣にある松上家が妻の実家である関係からここに葬られたものである。

花又花酔句壁

永代合祀供養塔

永代合祀供養塔

平成18年5月25日開眼供養

若紫(わかむらさき)の墓

遊女は大体投込で葬られたが、この墓は投込墓でないという意味での代表的なものである。
若紫は角海老楼の遊女で、明治26年。客に心中を強いられて死亡したものである。

助七と助八の墓

父の仇を討とうと、江戸に出てきた助七と助八の兄弟だったが、首洗い井戸で平井権八に返り討ちに遭ってしまった。

 

これらの史跡のテキストは、浄閑寺のウェブサイトから引用させて頂きました

浄閑寺で見つけたその他のお地蔵さん

浄閑寺のお地蔵さん

浄閑寺の地蔵菩薩

浄閑寺の行事・催し物

  • 荷風忌(4月30日)
    永井荷風の法要
    遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れています

浄閑寺へのアクセス

東京都荒川区南千住2−1−12

東京メトロ日比谷線 三ノ輪駅北口より徒歩1分

取持地蔵尊など(永代寺)

永代寺は深川不動尊富岡八幡宮など著名な建造物の近くにあり、訪れやすい立地にあります

 

またかつて江戸六地蔵のひとつとして栄えたという歴史があり、そういった意味からすれば江戸六地蔵の記事も今回をもって完結といえるのかもしれません

jizo-bosatsu.hatenablog.com

その他にも子育て地蔵尊や取持地蔵尊など何体かのお地蔵さんを見つけることができました

永代寺の基本情報

深川 永代寺 山門

永代寺は高野山真言宗のお寺で、山号は大栄山、院号は金剛神院
本尊は歓喜天、開基は長盛上人
御府内八十八ヶ所霊場68番札所ともなっています

永代寺の歴史

深川 永代寺 本殿

永代寺は寛永元年(1624)長盛の開山により永代島(現在の永代橋東側一帯)に創建されました


江戸時代には富岡八幡宮別当寺、江戸六地蔵の一つとしても栄え、元禄12年(1699)には関東五ヵ寺同等の格をたまわりました
当時の永代寺は現在の深川公園一帯の敷地を持った広大なお寺でした

 

ちなみに門前仲町という地名は、この旧永代寺の門前という事が由来となっています

 

明治初年の神仏分離により廃寺、江戸六地蔵の六番目のお地蔵さんもその際に壊されてしまいました
現在その代わりとして台東区の浄名院に代仏が建てられています

jizo-bosatsu.hatenablog.com

明治29年に旧永代寺の塔頭吉祥院が名称を引き継ぎ、現在の地に再興されました

永代寺のお地蔵さん

深川 永代寺 地蔵堂

永代寺には地蔵堂があり、中には子育て地蔵尊や取持地蔵尊などが祀られていました

深川 永代寺 子育て地蔵尊

取持地蔵尊とは珍しい名前のお地蔵さんですが、一体どういった意味からなのでしょうか?
調べてみましたが、はっきりしたことは分かりませんでした

深川 永代寺 お地蔵さん

こんなかわいらしいお地蔵さんも

深川 永代寺 かわいいお地蔵さん

永代寺へのアクセス


江東区富岡1-15-1
地下鉄東西線都営大江戸線 門前仲町駅より徒歩2分