お地蔵さんブログ

お地蔵さんの写真や解説などを記しています

ひまわり地蔵尊 投げ込み寺(浄閑寺)

浄閑寺 山門

浄閑寺の山門は江戸時代に建立されたもので、荒川区教育委員会より荒川区の最古の木造建造物として指定を受けています。

 

南千住の近くの浄閑寺というお寺にひまわり地蔵尊という名前のお地蔵さんがいるというので行ってきました
太陽の下で働いてきた日雇い労働者のシンボルとのこと
あしたのジョーで有名になった泪橋のあるドヤ街「山谷」はここから徒歩で10分ほどです
また浄閑寺は吉原遊郭に近く、通称投げ込み寺としても知られています

浄閑寺の基本情報

浄閑寺は浄土宗のお寺山号は栄法山、院号は清光院
開山は天蓮社晴誉順波和尚
本尊は阿弥陀如来

浄閑寺の歴史

浄閑寺は明暦元年(1655)に創建されました
安政2年(1855)の大地震の際にたくさんの吉原の遊女が投げ込むように葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになりました

浄閑寺 本堂

平成七年に改築された二階が本堂・客殿になっています
旧本堂は昭和59年の不審火で消失してしまいました

ひまわり地蔵尊

ひまわり地蔵尊

山谷は日雇い労働者が集まるドヤ街として知られています
山谷老友会はひとり淋しく人生を終える労働者たちが孤独の壁をこえて連帯し支えあってきました


しかし死後の安心なしには真の生活の安らぎがないと倉田辰彦氏がひまわり地蔵尊の建立を思い立ちました

 

ひまわりは太陽の下で一生を働きぬいてきた日雇い労働者のシンボルといえます
この地蔵尊は倉田辰彦氏はじめ多くの方々のご厚意と浄財によって建立が実現したものです

 

この地蔵尊は墓地の区画内にあります
基本的にブログ記事執筆の為に墓地内には立ち入らないことにしているのですが、今回は住職さんの許可がおりたので例外的に墓地で撮影しています

浄閑寺の著名な建造物

新吉原総霊塔

新吉原総霊塔

現在の塔は昭和4年8月に、寛政5年(1793年)以来の供養塚を改修し、形を改め、名も「新吉原総霊塔」としたものです。


前の塚は安政2年(1855年)10月2日の大地震に横死した遊女五百余人が運ばれ供養されていました。
新吉原創業から廃業まで江戸、明治、大正、昭和と三百八十余年間に浄閑寺に葬られた遊女、遊女の子、遺手婆など遊郭関係のものや、安政、大正両度の大震災に死んだものを含めた推定数は二万五千に及びます。

 

塔の前方にはお地蔵さん
塔の基部には花又花酔の句「生まれては苦界、死しては浄閑寺」が刻まれています。

豕塚(いのこづか)

通称豚塚(ぶたづか)と言われる。
この碑は天保年間に災厄除けのため白い豕(猪ならん)を、吉原大門の側に飼育したのを死んだのち葬ったものである。


この豕塚には猪の絵が彫ってあり「火伏せの豕」と伝承されて、浄閑寺安政、関東、二度の震災のほか、東京空襲の猛火をも免れたのは、この豕のお蔭だと信ずる人もある。

首洗い井戸

父・本庄助太夫の仇である平井権八を討ち果そうとした助七と助八の兄弟でしたが、兄助七は吉原田圃権八に返り討ちにあってしまいます。


弟の助八はこの井戸で兄の首を洗っているところを、無残にも権八に襲われ討ち果たされてしまいました。
この平井権八の話は、浄瑠璃や歌舞伎にもなっています。

小夜衣供養地蔵尊

小夜衣供養地蔵尊

元々は境内にありましたが、今は山門前に立っています、「悪い部分をなでると良くなる」という言い伝えがあり、お参りの人が絶えません。


この小夜衣(さよぎぬ)については次のような話があります。
京町1丁目の四つ目屋善蔵の抱え遊女、小夜衣は、女主人に放火の罪をきせられ、火あぶりの 刑になりました。
ところが、一周忌、三回忌、七回忌のたびに廓内から火が出て四つ目屋はいつ も全焼し、ついには潰れてしまいました。


廓内の人々が集まって霊を慰める仏事を行ってからは、 年忌ごとの家事はなくなったそうです。

新比翼塚

新比翼塚

明治十二、十三年のころ品川楼で情死した遊女 盛絲(せいし)と内務省の小使 谷豊栄(とよなが)二人の追善に建てられたのである。
永井荷風浄閑寺へ誘ったのは、新比翼塚であった。

萩原秋巌先生の墓

1803〜1877年 江戸時代後期の書家。
享和3年生まれ。巻菱湖(まき りょうこ)の高弟で、一派をなす。
宋(そう)(中国)の徽宗(きそう)の書体痩金書を好んだ。明治10年2月19日死去。享年75歳。

荷風花畳型筆塚

昭和38年建立(谷口吉郎氏設計)
永井荷風の死後、知人有志によって荷風を偲び建立された記念碑です。


中には荷風の2枚の歯と常用していた平安堂製白圭銘の小筆が1本納められています。
設計者の谷口吉郎氏は帝国劇場や東宮御所などを設計された有名な建築家です。
また筆塚の側面の壁には偏奇館吟草の中より「震災」の詩を彫った黒御影石の歌碑があります

三遊亭歌笑

歌笑は戦後の人気噺家であった。檀家ではないが、この墓の右隣にある松上家が妻の実家である関係からここに葬られたものである。

花又花酔句壁

永代合祀供養塔

永代合祀供養塔

平成18年5月25日開眼供養

若紫(わかむらさき)の墓

遊女は大体投込で葬られたが、この墓は投込墓でないという意味での代表的なものである。
若紫は角海老楼の遊女で、明治26年。客に心中を強いられて死亡したものである。

助七と助八の墓

父の仇を討とうと、江戸に出てきた助七と助八の兄弟だったが、首洗い井戸で平井権八に返り討ちに遭ってしまった。

 

これらの史跡のテキストは、浄閑寺のウェブサイトから引用させて頂きました

浄閑寺で見つけたその他のお地蔵さん

浄閑寺のお地蔵さん

浄閑寺の地蔵菩薩

浄閑寺の行事・催し物

  • 荷風忌(4月30日)
    永井荷風の法要
    遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れています

浄閑寺へのアクセス

東京都荒川区南千住2−1−12

東京メトロ日比谷線 三ノ輪駅北口より徒歩1分