錦糸町周辺で何体かのお地蔵さんと巡り会うことができました。
いずれも路傍のお地蔵さんです。
【目次】
夢違之地蔵尊
このお地蔵さんに込められた願いを夢違地蔵尊縁起から引用します。
夢違地蔵尊縁起
一九二三年(大正十二年)関東大震災に於ける下町の惨禍は遭難死者五万八千名
に及びその遺骨を収納し、東京都慰霊堂が建立され、その加護と平安を願い毎年九月
一日を記念日と定め 官民あげて法要が営まれているが、この地も焦土と化し
その物故者も多いため、毎年その慰霊法要を行うに至った。一九四一年(昭和
十六年)太平洋戦争勃発し、戦局利にあらず、殊に一九四五年(昭和二十年)三月九日
より十日にかけての米戦略爆撃機B29による東京空襲は最も熾烈を極め僅か
数時間で下町を中心に二十七万八千余戸を焼失し無慮七万八千余の殉難者を出した
広島 長崎の原爆の戦史に比類する永遠に忘れ得ぬ悲惨な史実である。まだ春浅き三月九日夜半 雨あられの如く投下された焼夷弾は、いとまなき
出火となり立ち向かう術もなく、劫火の中を、親は子を子は親を、呼び合い叫び
逃げまどい 或は壕に入り、水面に飛込み、或は公園、校舎に走り、ついに力尽きて
その声も消え果て、やがて倒れ重なりまっ黒な焼身と化し、水に入りては沈泥
に骸と果て、翌朝光の中の惨状は眼を覆うばかりであった。生き残れる者僅かに
してそのさまは亡者のようであった。この地の殉難者数約三千余名といわれている。この地蔵尊の在わします菊川橋周辺の惨禍は、東京大空襲を語るとき後世まで残る
もので霊地として守らねばならない聖域である。而して復興なり一九八三年
(昭和五十八年)三月十日、誠心集い浄財を集め仏縁深き弥勒寺住職の教示を得て、
これか悪夢の消滅を願い、これを善夢に導き、再びこの悲史をくり返さないよう
にと、夢違之地蔵尊と命名され開眼法要、殉難者追悼供養を施行した。時移り再び多大なる協賛を得て夢違之地蔵尊縁起の史碑建立となり地蔵講が
生まれた。願わくば子々孫々への加護と人類の平和を祈念して本日此処に慰霊法要
を謹んで行うものである。
夢違之地蔵尊へのアクセス
東京都墨田区菊川3-13-2
都営地下鉄 菊川駅より徒歩5分
八百霊(やおたま)地蔵尊
こちらも八百霊地蔵尊由来記碑から引用します。
八百霊地蔵尊由来記碑
昭和二十年三月十日大東亜戦争による米軍東京大空襲により一朝にして犠牲となった当時の深川高橋五丁目の町民八百余名の霊を慰めるため昭和二十一年生存者町民有志によりこの地蔵尊が建立された
この由来を後世に伝へ併せて恒久の平和を祈るため三十周忌を記念してこの碑を建てた昭和四十九年三月十日
江東区森下五丁目町民有志
八百霊(やおたま)地蔵尊へのアクセス
小名木川地蔵尊(開運延命子育て地蔵尊)
こちらも東京大空襲による犠牲者を追悼する為に再建立されたお地蔵さんです。
元々は明治初年7月24日、現在の小松橋付近ですくいあげられたと伝えられています。
当時の小名木川は隅田川に次ぐ重要な物資運送の河川であり、曳舟の往来で死去した人の冥福を祈り、平安を祈願する目的で建てられたと思われています。
毎月四の日ごとに御供物・御生花を供え御開帳し、ご供養しています。
小名木川地蔵尊へのアクセス
扇橋地蔵尊
小名木川地蔵尊の近くで出会った二体並んだお地蔵さん。
こちらの由来については、調べても分かりませんでした。
扇橋地蔵尊へのアクセス
この地域が東京大空襲で大きな被害を受けたこともあり、被害者を供養するお地蔵さんが多かったです。
ウクライナで民間人が被害を受けている今、戦争の被害や恐ろしさを伝えていく為、後世に残していくべきお地蔵さんだと感じ、手を合わせて平和を祈願しました。
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