こちらは以前公開した浅草寺の記事の追記にあたる意味合いがあります。
まだまだ浅草寺にはお地蔵さんがいらっしゃいます。
本記事では浅草寺鎮護堂のお地蔵さんについて紹介していきたいと思います。
【目次】
浅草寺 鎮護堂とは
浅草寺 鎮護堂は、明治16年(1883)に浅草寺中興第17世貫首唯我韶舜(ゆいがしょうしゅん)大僧正が、夢告により境内に棲む狸を伝法院の守護としてまつったものです。
伝法院境内脇にあり、当初は伝法院の鎮守としてまつられていましたが、福徳を願う信者の参詣が多いので、一般にも開放されました。
以下解説文を浅草寺公式サイトより引用します。
江戸市中に「狸阪」「狸穴」などという地名があったとおり、かつて江戸には狸が多く棲んでいた。
上野の山や、浅草の奥山にも狸が棲んでいたが、官軍と彰義隊が戦った上野戦争や奥山の開拓などで逃げ出して、明治の初めには浅草寺の伝法院あたりに棲みつくようになった。
一説には狸らは、草履を釜に投げ入れたり、座敷に砂をまいたりなどのいたずらをしたという。
浅草寺も狸らの乱行に困っていたが、時の住職、唯我韶舜大僧正の夢枕に狸が現れ、「われわれのために祠を建てて保護してくれれば、伝法院を火災から守り、永く繁栄させましょう」というお告げがあった。
そこで、明治16年(1883)に鎮護大使者として祀ったのがこの鎮護堂である。
その霊験あってか、伝法院、鎮護堂ともに関東大震災や東京大空襲での焼失を免れている。
火除け祈願のほか、この祠に祈ったところ失せものが見つかったという霊験から、盗難除けの祈願をするご信徒も多い。
また、狸を「他を抜く」という語呂としてとらえて、特に落語家や歌舞伎役者など、芸能関係者の信仰が篤いことで知られている。
鎮護堂は「おたぬきさま」の名で親しまれ、防火、盗難除、商売繁盛の守護神として知られています。
数度の数度の移転を経て、明治16年伝法院内の当地に再建されました。
また祭礼は、毎年3月17日・18日に行われています。
手水鉢
この手水鉢は、明治13年(1880)市川一門により奉納される。
制作者は部名で発起人は5代目市川新蔵。
市川新蔵(1861~1897)は歌舞伎役者。8歳で4代目中村芝翫に入門、明治7年(1874)9代目市川団十郎の門下に就き、5代目市川新蔵を襲名、立役の花形として団門四天王の一人と称された。
おたぬきさまは「たをぬく」と言われ、学芸成就のご利益があると、役者や芸能人にも信仰され、この手水鉢も人気の泉と呼ばれ親しまれている。
鎮護堂の神木・公孫樹(いちょう)
鎮護堂(ちんごどう)の神木・公孫樹(いちょう)
推定樹齢4、500年。
この公孫樹の木は、昭和20年の3月10日の東京大空襲の時、焼夷弾(しょういだん)を浴びながらも、その猛火から鎮護堂を守ったという神木である。
今でも木には当時の焼け跡が残っている。
戦争がこの世からなくなることを願いたい。
手水鉢と神木の説明書きは境内にあった掲示板から引用させて頂きました。
浅草寺 鎮護堂で出会ったお地蔵さん
水子地蔵尊
昭和54年(1979)9月建立。
毎月24日午前10時に水子供養法要が行われます。
加頭地蔵尊
名前の由来は破損した頭部をつないであるため。
「首がつながる」との俗信から、サラリーマンらの信奉も集める。
そういえば練馬区にも首つぎ地蔵尊というリストラにご利益にあるお地蔵さんがいます。
目白地蔵尊
名前の由来は不明。
開運にご利益があります。
おやす地蔵尊
名前の由来は不明。
出世・子育てにご利益があります。
浅草寺 鎮護堂へのアクセス
東京都台東区浅草2-3-12
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