お地蔵さんブログ

お地蔵さんの写真や解説などを記しています

ぼたもち地蔵(長延寺)

長延寺のお地蔵さん

 

杉並区の長延寺で、ぼたもち地蔵というユニークな名前のお地蔵さんを見つけました。
お寺の基本情報と共に、ぼたもち地蔵の名前の由来を紹介していきましょう。

 

【目次】

 

長延寺の基本情報

長延寺は曹洞宗のお寺で、山号曹洞宗
文禄3年(1594)市谷(現新宿区市谷長延寺町)に十世喚英長応によって開山。
当地に移転してきたのは、明治42年(1909)のことになります。
今川義元の曾孫直房が寛文元年(1661)当寺に葬られて以来、今川家の菩提寺にもなっています。
本尊は釈迦如来坐像。

 

山門

山門

 

本堂

本堂

長延寺の本堂

 

大倉稲荷大明神

大倉稲荷大明神

大倉稲荷大明神

お稲荷さん

 

和光不動尊

和光不動尊

 

ぼたもち地蔵

ぼたもち地蔵

ぼたもち地蔵

 

二体のお地蔵さんが確認できました。
赤い頭巾をかぶったお地蔵さんがぼたもち地蔵です。

さて気になる名前の由来ですが、こちらは境内に掲げられていた掲示板に解説が書いてありました。

 

当時門前に信心深い夫婦が住んでおり、この地蔵に願いをかけて男児を得たが、産後の肥立ちが悪く、母子ともに明日をも知れない状態になったところ、地蔵が化身した小僧がぼた餅を持って現れ、それを食べた母子がともに元気になった。
以来この地蔵は子育て地蔵として信仰を集めたと伝えられています。

引用:杉並区教育委員会掲示

 

長延寺へのアクセス

東京都杉並区和田1-44-24
東京メトロ丸ノ内線東高円寺駅」より徒歩約10分

 

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油面子育地蔵尊(高地蔵)

地蔵祠

 

油面子育地蔵尊(高地蔵)とは

油面子育地蔵尊(高地蔵)

 

この地蔵尊は、「高地蔵」と呼ばれ油面の人々に親しまれています。
もと、目黒通り(昔の二子道)の油面交番近くの小高い角地に立っていましたが、昭和9年に道路拡張のため現在地に移転されました。
土手の上に総高2米以上もある高い地蔵が祀られていたので「高地蔵」の名が生まれました。
享保の頃、江戸は連年の飢饉や大火で生活困窮のため多くの死者を出しましたが、その人たちの冥福を祈り救済を願って享保18年7月(1733)に祐天寺に於いて供養が営まれ、六十六部供養塔と共に祀られました。
また、この地蔵の左側に「南無阿弥陀仏、祐天寺、祐東、文政元年」と刻まれた名号碑が建っています。
今も育児の厄除けに霊験あらたかな子育て地蔵尊として信仰され供養を続けて、毎月3の日に縁日が開かれています。

 

引用:目黒区教育委員会

 

名号碑

名号碑

 

油面(あぶらめん)は、東京都目黒区の旧地名で、その地名は江戸時代中期からこの辺りでは菜種が栽培され、菜種から作った油を増上寺や祐天寺に燈明用として納めていたことに由来します。

 

油面地蔵通り商店街

 

目黒通り油面交差点から北西に延びる道は油面地蔵通りと呼ばれ、道筋には油面地蔵通り商店街があります。

 

油面子育地蔵尊(高地蔵)へのアクセス


東京都目黒区目黒4-24-8

 

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見送り地蔵(宝仙寺)

見送り地蔵

 

中野区屈指の広大な寺院である「宝仙寺
著名人の葬儀・告別式も多く執り行われることでも知られています。
こちらの寺院では、見送り地蔵や六地蔵などを見ることができました。

 

【目次】

 

宝仙寺の基本情報

寺号標

 

宝仙寺真言宗豊山派のお寺で、山号明王山、院号は聖無動院。
平安後期の寛治年間(1087~94)源義家によって阿佐ヶ谷に創建。
現在の地に移されたのは、室町時代です。

 

本尊は不動明王像。
御府内八十八ヶ所霊場12番札所、関東三十六不動15番不動でもあります。

 

山門

山門

一対の仁王像が門を守っています。

 

大師堂

大師堂

 

本堂

本堂

本堂

本尊である不動明王を中心に五大明王像が安置されています。

 

三重塔

三重塔

三重塔

飛鳥様式の純木造建築の塔です。

 

鐘楼

鐘楼

平成28年11月再建されました。

 

御影堂

御影堂

弘法大師の尊像が安置されています。

 

中野町役場跡碑

中野町役場跡碑

明治28年から昭和の初期まで中野町役場が境内に置かれていました。

 

臼塚

臼塚

 

中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を挽くことに使われていた。
そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるようになった。
その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。
それを見て当山、宝仙寺第50世住職富田敦純大僧正(宝仙学園創立者)が人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養した。

引用:中野区商店街連合会・中野法人会

 

宝仙寺文化財

福井學圃顕彰碑

福井學圃顕彰碑

 

福井學圃氏の顕彰碑。大正13年(1924)學圃の死後六年が経ち、弟子の小林正盛・芹沢閑・富田純の三氏が宝仙寺境内に建立することとしました。碑文は同じ長三洲氏の門弟であった日下寛(鳴鶴)氏に依るものです。
福井學圃氏は明治元年(1868)に四谷坂町に生まれ、幼少の頃より漢学を岡本黄石氏に、書法を長三洲氏に習い、青年期には外国語学校の独逸語科を卒業されました。
以後は漢学の研鑽に励み、特に五言律詩に長じ、宮内省図書寮に仕官し勤務する傍ら、多くの弟子に漢学や書法を教授されました。

引用:宝仙寺公式サイト

 

 石川正清顕彰碑

石川正清顕彰碑

 

三重塔裏にある石川正清の顕彰碑。
石川正清の門人が師正清の業績を讃えるために、正清に二行の書と畧画を乞い造立したものです。
石碑の表面には「玉磨かざれば器を成さず、人學ばざれば道を知らず」の書と二つの宝珠を描いています。

引用:宝仙寺公式サイト

 

宝仙寺で見つけたお地蔵さん

引導地蔵尊坐像(見送り地蔵)

引導地蔵尊坐像(見送り地蔵)

 

宝仙寺36世祐厳師が自らの墓標と弟子祐雅・卍瑞の墓標を兼ねて、明和9年(1772)の夏に予修(生前にあらかじめ造立)したものです。
高野山延命寺にある引導地蔵尊を模刻したものといわれています。
光背裏の銘文に引導地蔵尊の縁起が記されており、これによると弘法大師が自分の代わりに末世の衆生を引導するようにと、入定の前々日の承和2年(835)3月19日に刻まれた尊像であるとされています。

引用:宝仙寺公式サイト

 

 六地蔵

六地蔵

 

その他のお地蔵さん

お地蔵さん

地蔵菩薩像

 

宝仙寺へのアクセス

東京都中野区中央2-33-3
東京メトロ丸ノ内線都営大江戸線中野坂上駅」2番出口より徒歩5分

 

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