中野区屈指の広大な寺院である「宝仙寺」
著名人の葬儀・告別式も多く執り行われることでも知られています。
こちらの寺院では、見送り地蔵や六地蔵などを見ることができました。
【目次】
宝仙寺は真言宗豊山派のお寺で、山号は明王山、院号は聖無動院。
平安後期の寛治年間(1087~94)源義家によって阿佐ヶ谷に創建。
現在の地に移されたのは、室町時代です。
本尊は不動明王像。
御府内八十八ヶ所霊場12番札所、関東三十六不動15番不動でもあります。
山門
一対の仁王像が門を守っています。
大師堂
本堂
本尊である不動明王を中心に五大明王像が安置されています。
三重塔
飛鳥様式の純木造建築の塔です。
鐘楼
平成28年11月再建されました。
御影堂
弘法大師の尊像が安置されています。
中野町役場跡碑
明治28年から昭和の初期まで中野町役場が境内に置かれていました。
臼塚
中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を挽くことに使われていた。
そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるようになった。
その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。
それを見て当山、宝仙寺第50世住職富田敦純大僧正(宝仙学園創立者)が人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養した。
引用:中野区商店街連合会・中野法人会
福井學圃顕彰碑
福井學圃氏の顕彰碑。大正13年(1924)學圃の死後六年が経ち、弟子の小林正盛・芹沢閑・富田純の三氏が宝仙寺境内に建立することとしました。碑文は同じ長三洲氏の門弟であった日下寛(鳴鶴)氏に依るものです。
福井學圃氏は明治元年(1868)に四谷坂町に生まれ、幼少の頃より漢学を岡本黄石氏に、書法を長三洲氏に習い、青年期には外国語学校の独逸語科を卒業されました。
以後は漢学の研鑽に励み、特に五言律詩に長じ、宮内省図書寮に仕官し勤務する傍ら、多くの弟子に漢学や書法を教授されました。
引用:宝仙寺公式サイト
石川正清顕彰碑
三重塔裏にある石川正清の顕彰碑。
石川正清の門人が師正清の業績を讃えるために、正清に二行の書と畧画を乞い造立したものです。
石碑の表面には「玉磨かざれば器を成さず、人學ばざれば道を知らず」の書と二つの宝珠を描いています。
引用:宝仙寺公式サイト
宝仙寺で見つけたお地蔵さん
引導地蔵尊坐像(見送り地蔵)
宝仙寺36世祐厳師が自らの墓標と弟子祐雅・卍瑞の墓標を兼ねて、明和9年(1772)の夏に予修(生前にあらかじめ造立)したものです。
高野山の延命寺にある引導地蔵尊を模刻したものといわれています。
光背裏の銘文に引導地蔵尊の縁起が記されており、これによると弘法大師が自分の代わりに末世の衆生を引導するようにと、入定の前々日の承和2年(835)3月19日に刻まれた尊像であるとされています。
引用:宝仙寺公式サイト
その他のお地蔵さん
東京都中野区中央2-33-3
東京メトロ丸ノ内線・都営大江戸線「中野坂上駅」2番出口より徒歩5分
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