五反田周辺を歩いていて何体かお地蔵さんを見つけました
旧中原街道の一角に立っていたのが「子別れ地蔵」
享保12年(1727)に建てられたというこのお地蔵さんは見ての通り、この地域は第二次大戦の空襲が激しかったという影響もあって現在では損傷や剥落が目立っています
しかし真紅の帽子とよだれかけを付けられ、幾束もの千羽鶴がかけられていることから近隣住民に大切にされているお地蔵さんであることを窺い知ることができます
では何故このお地蔵さんは「子別れ地蔵」と呼ばれているのでしょうか?
それはお地蔵さんの立っている道が桐ヶ谷斎場(かつては桐ヶ谷の火葬場と呼ばれていました)に通じていることと深い関係があります
不幸にも親より先に子が亡くなってしまった場合、特に江戸期では親が火葬場に付き添い、骨を拾うことができない場合があったといいます
ゆえに親はこのお地蔵さんの前で我が子を見送ったのだといいます
それが「子別れ地蔵」と呼ばれるようになった所以です
【アクセス】
品川区西五反田6-22-3
次に見つけたのが旧中原街道供養塔群
かつては現在の地の北方10メートルの地にあったものが、昭和38年の区画整理で移動してきました
アパートの入り口(敷地内かも?)にあったのでびっくりしてしまいました
建立は江戸中期頃と推測され、中央にあるお地蔵さんは2メートル近くあります
台座には大井・上蛇窪・下蛇窪・馬込・千束・碑文谷・上中延・下中延・小山・目黒・桐ヶ谷・谷山・上大崎・下大崎・居木橋・三ッ木・戸越の17ヵ村の名が連ねられています
また向かって右のお地蔵さんは延享3年(1746)寒念仏供養のためのもの
左手奥には馬頭観音元文元年(1736)造立、その前にある聖観音は石造墓碑で、貞享年間(1684~87)に建てられました
【アクセス】
品川区荏原1-5-10
次に協和地蔵を紹介しましょう
こちらは西五反田協和会館の玄関脇に祀られていました
施主 内田金太郎氏の祖先が地中に埋没しているのを夢で知り、昭和20年5月24日に掘り起こしてこの地に祀ったものとのこと
その地蔵は中原街道の建設に多くの犠牲者が出た為、その供養に祀られたものではないかとされています
しかし現在祀られているものは、長い年月と第二次世界大戦の戦災などにより損傷が著しいため、以前の新たに建立し「協和地蔵尊」として祀ったものである
(昭和20年頃までは、首のない首なし地蔵を含む六体の地蔵があった)
なおこの近隣の歴史を物語る資料がカプセルに入って協和地蔵尊の下に埋まられており、2032年に掘り起こされる予定となっています
隣にはお地蔵さんへの願いを書いた看板がありました
【アクセス】
品川区西五反田8-2-10
ここからはお寺の中で見つけたお地蔵さんです
寿昌寺は臨済宗系単立のお寺で大崎山と号します
正保2年(1645)頃に大慈円満国師によって開創され、伊達政宗夫人の帰依を受け、当地へ移転しました
伊達家ゆかりのお寺ということに驚きました
山号 |
大崎山 |
院号 |
|
寺号 |
寿昌寺 |
宗派 |
臨済宗系 |
本尊 |
十一面観世音菩薩 |
創建 |
正保2年(1645)頃 |
開基 |
大慈円満国師 |
境内には朽ちた感じのお地蔵さんが立っていました
【アクセス】
品川区東五反田3-8-11
続いて見つけたのは本立寺
日蓮宗のお寺で妙建山と号します。
慶長2年(1597)に池上本門寺12世日惶が建立、創建
もともと当地にあった妙建山恵性寺が廃寺となった際、移転されました
山門近くに元禄地蔵尊という3体のお地蔵さんが祠に入っていました
このお地蔵さんにまつわるこんなお話があります
その昔このお寺の近くにある花屋に宮内長次郎というものがいて、ある日高熱でうなされていました
医者にも原因は分からず途方に暮れていたところ、お寺の上人と縁のある法華経に信仰の厚い広瀬妙誠という者が枕元で懸命にお題目を唱えました
すると広瀬の夢にお地蔵さんが現れて言うことには「お寺の辰巳の方角にお地蔵さんが3体埋まっている、掘り起こしてお祈りすれば宮内の熱はすぐに冷めることだろう」
この夢のお告げに従ってお寺の地面を掘るとお地蔵さんが現れ、お堂に祀ってお祈りすると不思議なことに宮内の熱が収まったといいます
このお地蔵さんも空襲で焼かれてしまい、現在のお地蔵さんは昭和31年に復興されたものです
本立寺公式サイト
【アクセス】
品川区東五反田3-6-17