恐らく知名度ではダントツ、飛びぬけて有名なお地蔵さん。
今回は巣鴨のとげぬき地蔵尊に訪れました。
僕自身ももちろんお地蔵さんに興味を持つ前から知っていました。
この度改めてこの「とげぬき地蔵」について調べていて色んな発見がありました。
例えばとげぬき地蔵が秘仏で見ることができないって知ってました?
TVなどで紹介される
これや
(洗い観音です)
これはとげぬき地蔵じゃありません
本物は本堂の奥に人目に触れることなく存在しています。
但し東十条でとげぬき地蔵尊の分尊を見ることができます。
そしてとげぬき地蔵のご利益を得るためには御影(おみかげ)と呼ばれる和紙(100円で売ってます)を貼ったり飲んだりすることが必要ということも初めて知りました。
なぜ御影を飲むとご利益があるのかということについては【解説】で述べます。
どうしてとげぬき地蔵と呼ばれているのか?
とげぬき地蔵のある曹洞宗萬頂山高岩寺は、約400年前(慶長元年=1596年)江戸湯島に開かれ、約60年後下谷屏風坂に移りました。明治24年、区画整備のため、当地(北豊島郡巣鴨町)に移転しました。
起源は正徳3年(1713年)5月にさかのぼります。江戸小石川に住む田付という人の妻は一人の男の子を出産して後重い病に見舞われ床に臥しやせ細ってしまいました。
諸々の医者が手を尽くしましたが、一向によくならず、遂に婦人は臨終を覚悟し、「私の家には怨霊があって、女はみな25歳までしか生きられないと父母から聞いております。姉も25歳で亡くなりました。」といいだすしまつでありました。
田付氏は悲歎にくれつつも、この上は妻が日頃信仰する地蔵尊におすがりするほかないと、毎日一心に病気平癒の祈願を続けました。
ある日のこと、田付氏は不思議な夢をみました。黒衣に袈裟をかけた一人の僧が現われ、「私の像(かたち)を一寸三分に彫刻して川に浮かべなさい」という。
田付氏は、それは急には成し難いことを答えると、「ではあなたに印像を与えよう」といわれ、夢からさめました。不思議な夢と、ふと枕元をみると、何か木のふしのようなものが置いてありました。よくみるとそれは「彫ったものでも書いたものでもない」不思議な地蔵菩薩の御影なのでした。
田付氏は命の通り、これを印肉にせしめて、宝号を唱えつつ一万体の御影をつくり、両国橋へ行き、一心に祈願しながらこれを河水に浮かべました。さて、その翌日朝またぎ、田付氏は病床の夫人の呼ぶ声に急いで行ってみると、夫人は「今、枕元に死魔が現われましたが、錫杖(しゃくじょう)をもった黒衣のお坊さんが、錫杖を使って外にドンと突き出してしまわれるのを見ました」と告げました。
田付氏は霊験にわれを忘れていましたが、あれほど重かった夫人の病は日一日と快方に向かい、その年の11月には床を離れることが出来、以後夫人は無病になったといいます。
田付氏がこの霊験の話を山高という人の家でしていると、一座の中に毛利家に出入りする西順という僧がいて、ぜひその御影を頂戴したいといいました。田付氏は持っていた2枚を与えました。正徳5年のある日、この毛利家の女中の一人が、あやまって口にくわえた針を飲み込んでしまいました。
女は苦しみもがくが医者も手の施しようがありませんでした。そこに西順が来たり、「ここに地蔵尊の尊影がある。頂戴しなさい。」といって、一枚を水で飲ませました。すると、間もなく女中は腹の中のものを吐き、きれいな水で洗っていると、その中に飲み込んだ針が、地蔵尊の御影を貫いてでてきたといいます。
以上が田付又四郎氏が享保13年(1728年)7月17日、自ら記して、高岩寺に献納された霊験記の一部です。
巣鴨地蔵通り商店街の地蔵にちなんだお店
お地蔵さんのグッツを売ってるお店もあって、思わず財布のひもがゆるんじゃいそう。
現在は多くの人で賑わっている巣鴨地蔵通り商店街ですが、明治24年に高岩寺が下谷から移転してきた当時は経営が苦しく、住職が夜逃げをするほどだったと言います。
復興したのはJR巣鴨駅ができた明治36年からです。
夜の高岩寺もまた趣があります。
高岩寺へのアクセス
豊島区巣鴨3-35-2
JR山手線 巣鴨駅 正面口より徒歩約5分
都電荒川線 庚申塚駅より徒歩約2分
都営地下鉄 三田線 A3出口より徒歩約2分
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